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2010年9月27日 (月)

奇縁まんだらから“パール・バック” & 姫路城の歴史(5)

日本経済新聞の日曜日版には、奇縁まんだらと題して毎週 瀬戸内寂聴さんが、過去に巡り合った人々を紹介する連載物があります。

本日のおたまはん日和では、926日の奇縁まんだら「パール・バックの温かな慈顔」から寂聴語録を抜粋して紹介し、パール・バックという偉大な作家の面影を思いだしてみたいと思います。

パール・バックと言う人の名前を聞けば、ほとんどの方が小説「大地」を思いだされるはずです。

寂聴さんが、小説「大地」の印象について次の様に書かれています。

「舞台は中国で、貧しい中国の農民の必死に生きる姿・・・、空を覆うイナゴの大群の描写や、いつおこるかわからない戦乱の度、土地を追われる人々は、貨幣に頼らず、宝石や金の装身具を身につけて逃げるという描写に、ひどく納得させられる。・・・」

パール・バックさんは、1892年に生まれ生後3カ月で中国にわたり、1917年に一時帰国し、結婚をし、米国の大学で学ぶ。1932年小説「大地」でピュリッツァー賞を受賞し、1938年アメリカ人女性として初めてノーベル文学賞を受賞。

寂聴さんは、女流文学者会がパール・バックを招いて講演会を開催した時、その会員として彼女に出逢う幸運に恵まれたと記しておられます。寂聴さん40歳(1922年生)の時で、パール・バックさん70歳(1892生)になっておられます。

寂聴さんは、その時の彼女の印象を次の様に語っています。

「ノーベル賞を受賞してからも、すでに二十年が過ぎていた。・・・よく肥っていて、往年出回っていた写真よりも円満なやさしい顔付になっていた。すっかり白くなった髪が銀色に光って仏の後背のように見えた。白一色の洋服は広いスカートとゆるやかな上着にわかれていた。 ・・・ 紹介させると、にこやかな柔和なまなざしになり、包み込むように、ひとりびとりの顔を正面からさし覗くように見つめた。人々の出会いをおろそかにせず、真剣に立ち向かう人なのだなと、胸が熱くなった。・・・」

パール・バックさんは子供一人授かりますが、その子に知的障害があり、小説を書く一因とも伝わっています。「大地」にもこの子を思わせる少女が描き込まれています。

また、パール・バックさんは、作家であるばかりではなく、七人の戦災孤児を養子にして育てたり、広島の原爆平和の運動に積極的に支援を行ったり、児童書や絵本を沢山執筆されています。

寂聴語録の最後に、パール・バックさんの次の言葉が紹介されています。

「これからも、子供たちのために、童話や絵本をたくさん書いていきたいと思います。未来は、子供たちのものなのですから」

私は、この最後の文章をただ紹介したくて、この寂聴の文章を引っ張ってまいりました。

学生時代にパール・バックさんの「大地」を読み大きな感動を覚えたということだけ記憶しています。

自分の子供には大地という名前を付けようなどと話していたことを思いだされます。

「未来は、子供たちのものなのですから」という、パール・バックさんの言葉を何度も噛み締めて、これからの我が人生を築いて行きたいと思います。

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『姫路城の歴史(5)』 姫路円卓会議発行 姫路ぶらぶら より

姫路城の歴史第5回目は、姫路ぶらぶら9ページより『姫路城の基本構造は?』をご紹介します。

『姫路城の基本構造は?』

姫路城は大きく分けて3つの区切られた区域からなり、内濠の内側を「内曲輪」(うちくるわ)、内濠と中濠の間を「中曲輪」、中濠と外濠の間を「外曲輪」と呼びます。そして、「内曲輪」には城主の居館と城郭、「中曲輪」には侍屋敷、「外曲輪」には町屋や寺院、そしてその外縁部には下級武士たちの侍屋敷や組屋敷を置き、敵の襲来に備えました。このように城下町全体を濠や城壁、土塁で囲い込んだ城郭形態を「総構え」と呼びます。

お城の基礎知識「縄張り」と「曲輪」

お城を構成する区画を「曲輪」とか「郭」(くるわ)といい、お城の中心の「曲輪」を「本丸」、それに続く曲輪を「二の丸」と呼びます。江戸軍学によれば、曲輪は丸く築くべきで、それは面積に対して守備をすべき外周が一番短くて済むのがこの形だそうで、曲輪や濠の配置を決める基本設計を「縄張り」といい、「城地」を選定する「城取」と併せて、お城を築く上で最も大切な要素でした。

以上、本日のおたまはん日和をお届け致しました。

最後までお読み頂きありがとうございます。

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2010年9月21日 (火)

第10回丹後100kmウルトラマラソン & 姫路城の歴史(4)

平成22919日 京丹後市において第10回歴史街道丹後100kmウルトラマラソンが開催されました。

このおたまはん日和では、毎年の様に、この丹後ウルトラマラソンのことを紹介をさせて頂いております。今年は、マラソン仲間の友人 清水氏 がウルトラ初挑戦で共に参加し、二人で仲良く完走する事が出来ました。

本日のおたまはん日和では、コースの簡単な紹介を含め、第10回大会を振り返ってみようと思います。

早朝の天気は快晴、少し涼しさを感じましたが、湿度は90%とのこと。

コースは、網野町のアミティー丹後を午前430分にスタートし、美しい海岸沿いに、七竜峠を越えて久美浜を目指します。久美浜湾を南側から一周し、また来た同じ道を走り網野町まで戻ります。

網野町からは、海岸線を離れ、内陸部に入り約15kmは弥栄町を抜ける比較的平坦な道を走ります。

そして、60km地点以降は、標高400m以上の碇高原超えまで、険しい山岳コースを走ります。

この高原にある73.4km地点である碇高原牧場が完走できるかどうかの大きな関門となります。

どれだけの時間でこの関門を通過できるか、そして、険しい登りを走り切った時の体調は如何にであります。

沢山の離脱者が出るポイントとなります。

今回は初参加の清水氏と共に制限時間の30分前に碇高原牧場を通過し、その後の海岸線までの厳しい下り坂を一気に駆け抜け、その後の平坦な道は、足の痛みを喜びにして、ゆっくりと走りきり、100km13時間23分で走り切りました。

今回は第10回大会ということで、初回から連続参加し、完走を目指されている方が15名ほどおられ、10回完走するとタイタン(Titan)”(=巨人、賢者)の称号が与えられ表彰されるとのことでした。

さて何名の方が、タイタンの称号を得られたのか?

私は、この丹後ウルトラマラソンは6回目の完走です。この大会の他に2006年に四万十川、2007年にしまなみ海道、昨年と今年に140km250kmの萩往還マラニックを走り、ウルトラマラソンは、通算10回目の完走となります。これからは、毎年丹後ウルトラに参加し、タイタンの称号を頂くためにランニングを楽しみたいと決意しております。

この大会では、後日詳しいラップ入りの完走証が送られてきます。その時ネット上で閲覧しながら購入できる

写真の紹介もあり楽しみにしています。

今年の参加者は、1270名以上で、最高年齢は78歳でした。78歳の紳士の完走を切に祈っております。

昨年に引き続き、ゲストに増田明美さんが来られており、各エイドポイントを活発に回り、一生懸命応援をしておられました。私にも何度も声を掛けて下さり、大いに元気を頂きました。感謝です。

以上、第10回丹後ウルトラマラソンを振り返ってみました

次は、今回で第4回目となります、姫路円卓会議発行のガイドブック“HIMEJI姫路ぶらぶらから文章を紹介させて頂く『姫路城の歴史(4)』。今回は 姫路城の広さは? をお届けします。

姫路城の広さは?

現在、姫路公園となっているのは、姫路城の「内曲輪」(うちくるわ)と呼ばれる部分で、東西456m、南北547m、その面積は約23ha(甲子園球場の約5.6)に及びます。しかし本来の姫路城は、船場川から外濠川までの東西約1.56km、姫路駅前から野里堀留町(ほりとめちょう)までの南北約1.7kmをいい、その総面積は約234ha(甲子園球場の約58)にも及びます。つまり姫路城全体の面積は、皆さんが姫路城だと思っている「内曲輪」の、およそ10倍もあるのです。

以上、姫路城の歴史を、本日は、少し短めに紹介いたしました。

本日も最後までお読み頂きありがとうございます。

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2010年9月13日 (月)

中村天風 心身統一の講習会参加 & 姫路城の歴史(3)

平成22911日(土)に、財団法人 天風会 神戸賛助会が開催した講習会に行ってきました。

今回のおたまはん日和では、この講習会の内容を簡単にお伝えしながら、中村天風哲人の教えである心身統一法の復習をしていきたいと思います。

講演の演題は、「観念要素の更改法」 「積極観念集中力の養成法」です。

観念要素の更改とは、一般的な表現では、潜在意識領を浄化する方法であり、積極観念集中力の養成法とは、消極な実在意識を積極化する方法となるかと思います。

の内容は、中村天風哲人の教えの最も基本的書である真人生の探究110ページの文章を紹介すると次の通りとなります。

もっとも先ず第一に理解すべきことは、人間の心で営まれる色々な思考作用は、すべて一切この観念要素というものが、その組織の根帯を為すということと、更に随時随所その心で営まれれる思考作用というものが、一々物の声に応ずるように感応性能に反応するということである。

この観念要素を更改する為の実際方法として、今回の講習会では、自己暗示誘導法の中から

(イ)聯想(れんそう)暗示法

(ロ)命令暗示法

(ハ)断定暗示法       の教授がありました。

これらの暗示法というのは、人間にとっていかに睡眠が大切で、また、その眠る前の一時と、目覚めの一時に

強い意志で、潜在意識に暗示を掛けるというものであります。

の積極観念集中力の養成法 の中で、教授のあった五つの題目の中から四つめの苦労厳禁について反省してみます。

苦労には、過去苦労、現在苦労、未来苦労(取り越し苦労)があり、どの苦労も決してしてはいけないということです。 あの時、ああしとけば良かったと過去を悔やんでも、未来にもしかしてあんなことが起こるのではないかと心配してもなにも良い結果産むはずもなく、逆に、人間生命の力を阻害するだけで、自分に与えられた力を全く発揮できず人生を台無しにしてしまう、怖ろしいことであるので、苦労はしない。ということです。

以上の事も、中村天風哲人が、よく言われる「人間の心で行う思考は 人生の一切を創る」という言葉に

端的に表現されていると思います。

これからは、出来る限り ()天風会 神戸賛助会 の講演会に積極的に参加し、会員の方々と切磋琢磨していきたいと感じました。

本文でも紹介させて頂きました天風哲人の最も基本的書である「真人生の探究」も再度読み直してみようと思います。

以上、天風会の講習会のおさらいをさせて頂きました。

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次は、今回第3回目となります 姫路城の歴史(3)です。

この姫路城の歴史は、【姫路円卓会議】が、平成219月に発行したガイドブック姫路ぶらぶらからその文章をそのままご紹介させて頂いているものです。面白い角度から姫路の歴史に迫る優れものです。

さて、今回は 「横断歩道は外濠の後」 です。どうぞお楽しみください。

姫路駅前から姫路城に向かってブラブラ歩くと、目の前に大きな横断歩道が見えてきます。

実にこの横断歩道が、かつて外濠があった場所です。姫路城のお濠は、姫山の北東から左巻きに穿(うが)たれ、姫山を三周しており、内側から「内濠」「中濠」「外濠」と呼ばれています。

つまりこの場所が姫路城の最南端で、この外濠とその内側に盛られた土塁で、南から迫る敵の侵入を阻んでいた訳です。

ここにあった土塁は、1888年(明治21)に崩され、その土は姫路駅の建設予定地となった田圃の埋め立てに使われました。しかし外濠の土塁は失われたのものの、姫路駅完成後も外濠は依然として残っており、人々はこの外濠に新たに架けられた2本の土橋を渡って、姫路駅に向かっていましたが、1913年(大正2)頃、姫路城南部の外濠はすべて埋め立てられ、土塁や門跡の石塁もすべて取り除かれました。そして1923年(大正12)、この外濠跡に神戸姫路電気鉄道(今の山陽電鉄)の線路が敷かれ、人々はこの電車軌道を唯一の外濠の名残として記憶に留めていました。しかし戦後になると、この軌道は高架線となり、大手前通りが完成した後は、駅前の様相がすっかり変わってしまい、ここが外濠の跡だということを示す石碑もないため、姫路市民であっても、そのことを知る人はほとんどいません。

本日の姫路城の歴史(3)は以上です。

そして、本日は、スペシャル版として、私の大好きな論語の言葉が ㈱致知出版社から出版されている

「安岡正篤一日一言 ~心に響く366の寸言~」の9月11日の今日の言葉にありましたので、その言葉を

ご紹介して締め括ります。

毎日メールでも配信されますので、登録されては如何でしょうか。


【楽しむ】

『論語』に曰く

「之(これ)を知る者は、 之を好む者に如(し)かず。 之を楽しむ者に如かず」と。


知ることは 本来余り価値がない。
これに対して、
好むことは 対象を自分の情緒の中に 入れることであって、身になる。
更(さら)に深く理性や 潜在意識の働きが加わると、これを楽しむという。
全ては楽しむという境地に到って、初めて渾然(こんぜん)として 具体化してくる。
つまり人間そのもの、生活そのもの、行動そのものになるからだ。
学問もこの境地に達してこそ本物である。

安岡正篤一日一言 ~心に響く366の寸言~
 http://www.chichi-yasuoka.com/ 発行(株)致知出版社

本日も、最後までお読みいただきありがとうござまいます。

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2010年9月 6日 (月)

『食育ではぐくむ心と体』&『姫路城の歴史(2)』

本日のおたまはん日和では、月刊誌 致知9月号 に掲載されています、

『一国は家庭の食卓から興る-食育ではぐくむ心と体』と題名された服部栄養専門学校校長の服部幸應(ゆきお)氏と筑波大名誉教授の村上和雄氏との対談の文章の中から、食卓が人間形成・躾にとって如何に大きな役割を果たすかということにスポットを当て、心に残る言葉を、とくに御両名どちらの言葉を示さずランダムに、私の意見も入れず、出来る限り沢山ご紹介させて頂きながら、私たちの命を支える「食」について考えていきたいと思います。

そして、後半では、第2回目となります、姫路ぶらぶらガイドブック(姫路円卓会議発行)より姫路城と姫路の歴史の紹介をさせて頂きます。

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食育基本法は、十一年前に政府が提案して、2005615日に議員立法でつくられた法案です。

そして、去年から幼稚園の学習指導要領に「食育」が入り、平成23年から小学校、24年から中学校、3年後には高校に入って、すべての学校教育機関で「食育」が行われるかけですが、これは、日本の家庭が崩れてきて、躾が出来ない状態になり、日本人の食の乱れをいち早くキャッチし「人間の躾の八割は食卓で行われており、幼少期の食生活のあり方がその後の人生の規範意識に繋がっている」いう考えのもと、服部幸應氏が、食育基本法の発案・推進の大きな役割を担ってこられました。

三つ子の魂百まで、というように幼少期の教育が人間の基本的なベースをつくることは確かです。

躾が大事だと言っても躾の時期というものがあり、3歳までは徹底的なスキンシップが必要で、それが人間の脳の基礎になります。

そして、3歳から8歳迄に小脳が完成し、その後12歳迄に大脳が完成すると言われています。

大脳の前頭葉で物事の良し悪しを理性的に判断しているのですが、大事なのは小脳が完成する迄の間です。

小脳は「動物脳」と言われていますが、この間に獣から人間に躾なければならないからです。

3歳から8歳までの間に「姿勢を正しなさい」「箸の持ち方はこうだよ」「食べる時はいただきますと言いなさい」と毎日のように言われて育つからまともな人間になるのです。

食育の一番の根本は八歳まできちっと家庭の食卓で躾をすることなのです。

一説では食べ物によって心も変わってくると言われますが、食事は後で、心が先だと思います。

躾けられているからきちんとした食事が出来るんだと思うのです。

食習慣の乱れは日本が一番ひどいと思います。アメリカもひどいと思われているかもしれないけれど、それは下層階級で、中産階級以上はしっかりと教育しています。彼らの家庭は大体、テレビを観て食事はしませんから。日本の家庭は下層階級から上層階級までテレビを観ながら食事をしています。

一時、イギリスの規範意識が著しく低下した時期がありました。いわゆる「英国病」が蔓延したわけですが、サッチャーが登場して変えていったのです。やはり、リーダーが大事で、国家の大きなビジョンを示しながら、一方で一国は家庭から興ることを理解した人がリーダーとなって、この国を立て直していただきたいですね。

ケニアの環境副大臣でノーベル平和賞をもらったワンガリー・マータイさんは、「もったいない」という日本語をそのまま用いて、物を大切にする心を世界へ発信した。だから僕も「shoku-iku」を世界へばらまいて、フードエデュケーションの概念、そして食に対する感謝の心を広めたいと思っています。

当たり前ですが、食事というのは動植物の命をいただくわけです。その動植物の命も太陽、水、空気、地球、といった大自然の働きが生み出したものです。だから「いただきます」と感謝していただく事が礼儀です。

「いただきます」という言葉は外国語に訳せないらしいです。外国語は対象を明確にするからです。

「いただきます」には動植物への感謝、つくってくれた人への感謝、天地への感謝・・・・あらゆる存在への感謝が含まれています。 その心を教えることが、「食育」の一番の根幹ではないかと思います。

食卓で、楽しい今日の出来事を話しながら、褒めるべきは褒め、叱るべきは叱ると、こういうコミュニケーションを取ってほしいのです。

いまの親御さんは褒めたら褒めっぱなし、「私は絶対に叱りませんから」なんて誇りをもっている親もいますが(笑)、そんな子供はろくな人間に育ちません。

それから、怒ってはダメです。叱るというのは理性をもって怒(いか)っているように見せるのですが、今の人は本当に子供に怒っちゃうから。

叱っている中から愛情があればそれは伝わりますね。

まずは家族がともに食卓を囲むことですね。

食卓は家族を繋ぐ扇の要、そして躾を行う最も重要な場所である事を多くの皆さんにも一度再認識していただきたいと思います。

「食卓」こそ「食育」です。

以上、服部氏、村上氏のお話を抜粋して紹介させて頂きました。

わたくしごときが何も申し上げることは何もないかとおもいます。

食事をする時は、姿勢を正して、魂を込めた感謝の気持ちで「いただきます」の言葉を唱和して、子供達の模範とならねばと改めて決意する次第です。

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姫路城の歴史(2) 姫路ぶらぶらガイドブック(姫路円卓会議発行)より

「なぜ輝政は姫路にお城を築いたか?」

関ヶ原の戦いに勝ち、天下の趨勢を握った徳川家康ですが、大阪城にはまだ豊臣秀吉の嫡子・秀頼がおり、西国には豊臣恩顧の大名たちが健在で、その政権基盤は盤石とは言い難いものでした。そこで家康は、豊臣恩顧の武将でありながら、自分の娘婿である輝政に播磨国を与え、西国にある豊臣恩顧の大名たちへの押さえとしたのです。

 姫路という土地は、古来より都と大宰府を結ぶ「山陽道(西国街道)」を始め、美作から出雲に到る「美作街道」、因幡に至る「因幡街道」、生野から但馬に至る「但馬街道」、篠山から京都に至る「京街道」、さらに海の玄関口、室津に至る「室津街道」などの街道が交わる交通の要衝で、西国から大阪へ向かうには、姫路を避ける訳にはいきません。つまり、ここに巨大な城を築けば、豊臣秀頼に味方して大阪城へ行こうとする大名たちは、この城を落とさなければなりません。つまり白亜に輝く姫路城の偉容は「豊臣に加担するなら、この城を落としてから行け」という輝政から西国大名たちに対する無言の圧力だったのです。  

本日の姫路の歴史の勉強は以上です。

改修中の姫路城。大天守には登城できませんが、西の丸の千姫化粧櫓の特別公開が今日から来年2月まで行われています。今しか見れない姫路城があります。色々な魅力でイッパイです。是非、お越しください。



本日も、最後までお読みいただきありがとうございます。


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