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2011年3月28日 (月)

中村天風箴言“時は金なり” & 姫路城の歴史(31)

私は、毎晩の寝がけか、朝目覚めてからいつも読んでいる

中村天風哲人の 『真理のひびき』新箴言注釈 という本があります。

本のまえがきに、この著書を的確に紹介している杉山博士の文章がありますのでここに掲載します。

  

 「天風哲人が、価値ある人生建設に必要とする日日の心得について

    書かれたものを、集録したものが本書である。

  箴言とは、戒めの言葉である。この書には、天風哲人の悟りと哲学

    が力強く打ちこまれている。」

  

 この『真理のひびき』は、天風哲人の31の箴言とその注釈の文章から構成されています。

毎日一つ一つの箴言を読み進め、1ヶ月で1冊読み終えるということになります。

今月で漸く11ヶ月目(11回目)となります。

今日は、その16番目の箴言と天風哲人の注釈の文章を抜粋して、ここに紹介させて頂きます。

  

*箴言十六

「時は金なりという諺があるが 真実に於いて 時は金よりも遥かに貴重な尊とさがある。」

*注釈

 物質礼讃のMaterialist(実利主義者)は、あるいは、「時は金なり」という言葉に心からの共鳴を惜しまないであろう。しかし、金は失っても取り返すことはあえて不可能ではないが、時はいったん失ったら永久に現在の意識に決して戻って来ない。

 のみならず、いっさいの事物の完成を観察すると、それは金の力で成しえたように見えても、真実は、要約すれば時の力である。

 西洋の諺にも、「時間を重んじない人は、礼儀を知らない人間よりも以下の人である」というのさえある。

ましてや、よく考えてみるとすぐにわかることだが、たとえ百歳まで生きたとしても、実際の人生生活の時間というものは、人によって多少の相違はあろうが、その半分以下のものであるといえる。

 現に英国の小説家で、有名なアーノルド・ベネットの言葉に

A man of sixty has spent twenty years in bed and over three years in eating. 

という風刺でない人生の実際相を如実に表現したものがある。

 右の言葉はすなわち、「六十歳の人は二十年は寝床の中で、三年は食事に費やす」というのであるが、この言葉だけ考えても、実際に営まれる人生生活の時間は、差し引き三十七年という僅かなものになる・・・

 こうした事実を慎重に考察すると、極限すればあくびする時間も、くしゃみをする時間も、とりかえせないのである以上、瞬間といえども軽々に徒費すべきでなく、心して有意義に使って活きるべきだと厳かに自戒して頂きたい。

 そしてここに、時は金よりも貴重なりという真の意義も、はっきりとわかってくると思う。

 上に掲げた天風哲人の言葉を読み、ただその言葉だけで満足してしまうのではなく、その奥にある真実を明確に認識し捉えて、日日の生活に活かせて行かねばならないと気持ちを新たにしています。

最後に、日野原先生の言葉を掲げて締め括ります。

『命とは、人の為に何かをする時間のことを言う。』

   

  

* * * 姫路城の歴史(31) 姫路ぶらばらから原文のまま紹介 * * *

姫路円卓会議発行の姫路ぶらぶらから姫路城にまつわる歴史を紹介しています。

30回目は、  姫路城の歴史 中曲輪をぶ~らぶら『 家老屋敷跡公園 』をお届けします。

江戸時代の「中之門」内の大手筋は、「中之門」がその門内で大きく左に折れていたため、今日の道よりやや西を通っていました。この道の突き当たりには通例、筆頭家老の屋敷が置かれており、幕末には姫路藩酒井家の筆頭家老・高須隼人(たかすはやと)の屋敷があったと伝えられており、2007(平成19)に行われた調査では、高須家の屋敷の礎石や井戸等、建物の遺構が確認されました。

この調査によると、高須家の敷地は、東西135m、南北75m、総面積は10,560㎡にも及び、その敷地は隣接する白鷺中学校内にまで及びます。大手筋に面した屋敷の南面には、石垣基壇の上に組み上げられた長屋門があり、その外観は瓦葺きの漆喰塗籠(ぬりごめ)で、合計4棟の建物からなり、敷地内には表書院や奥向きの書院、そして立派な庭木のある庭園も造られていたようです。

以上、姫路円卓会議発行のガイドブック姫路ぶらぶらの P31  から

     中曲輪をぶ~らぶら『 家老屋敷跡公園 』

を紹介させて頂きました。

  

最後までお読み頂きありがとうございます。

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2011年3月22日 (火)

心に響く言葉 & 姫路城の歴史(30)

倫理研究所西姫路様から毎週週末にA4サイズの1枚のファックスで文章を送って頂いています。

706号で紹介されているある詩を次に紹介します。



「ひつつの言葉」

ひとつの言葉でけんかして、ひとつの言葉で仲直り

ひとつの言葉で泣かされて、ひとつの言葉で笑いあう

ひとつの言葉で騙されて、ひとつの言葉で信じあう

ひとつの言葉はそれぞれひとつの命をもっている



 東北関東大震災で罹災された多くの人々が、不自由な生活を強いられています。

冷たく過酷な生活の中で、一生懸命に活きておられる方々が、それぞれに命をもつひとつひとつの言葉で、励まし合い、暖め合い、この戦後最大の国難に立ち向かって生きて頂きたいと切に願うばかりです。

 そう思っていると本棚の1冊の本に目が止ったので手に取り読んでみましたました。

題名は『心に響く言葉』です。この本は、致知出版社の藤尾秀昭社長がご自身で毎月2回発行しているメルマガの中から、特にご自身の心に響いたものを選んで編集されたもので、昨年の8月に発行されています。

まえがきに寄せられた鈴木英子さんのお言葉に吸い込まるように読みだしました。

「出会い」は人生への最高の贈りものとよくいわれます。

確かに、人との出会い、本との出会い、出来事との出会い、言葉との出会いなどを通しながら、一人ひとりの人生は磨かれていきます。

とくに日本人の精神性の中核をなすものに「言霊(ことだま)」という、古代から受け継がれてきた思想があります。言葉にこもる力、言葉の持つ影響力は、私たちの想像をはるかに超えています。

歴史に残る人々の伝記は、一つの言葉との出会いが人生を決定した劇的な記録に満ち溢れています。

ひとつの言葉はそれぞれひとつの命をもっている。言霊という命が、私たちの想像を遥かに超えるということをしっかりと心に刻み込み、信念にしようと思います。

『心に響く言葉』の中で、著者の藤尾秀昭社長が本を読んで久しぶり泣いたという話が紹介されています。

その本は、東井義雄先生の『10代の君たちへ-自分を育てるのは自分』という本です。

この本の中で藤尾秀昭社長を泣かせた 東井義雄先生が中学生に聴かせたというあるお婆さんのお話をここに掲載させて頂きます。




「私は主人が早くに亡くなりました。女の子一人の母子家庭だったん

 ですけど、主人が亡くなってからくず屋の仕事を続けて女の子を
 養いました。

 幸い、小学校の頃は、いい子だ、やさしい子だと、

 皆さんから誉めていただいていたんですが、

 中学校になってから、ぐれ始め、とうとう中学ニ年の時には警察の

 お世話になるようなことになってしまいました。

 あのいい子だいい子だといわれた子が、なぜこんなことになった

 んだろうか、どう考えてもわかりません。



 それが偶然わかったことですが、

 『いくら勉強ができるからといって、くず屋の娘やないか』

 といわれたことが大きなショックになって、

 『お母さんがあんな仕事やってるから、いくら勉強やったって、
  みんなからバカにされる』

 と考え、それからぐれ始めたということがわかりました。



 しかし、このくず屋の仕事をやめてしまっては、もう今日からの
 暮らしに困ってしまいます。

 かといって、ただ一人の女の子が、そんなことでは、亡くなった
 主人に申し訳ございません。

 長い間、ずいぶん迷いましたが、結局私の仕事をわかってもらう
 以外にはないと考えつきました。




 ある時、

 『お母さんが長い間こんな仕事をやってきて、

  足腰が痛んで、どうにもこうにもあの下からの坂道、

  家まで車を引いて登ることが できなくなってしまったんだ。

  すまんけど、あの下のポストのところまで、明日の晩迎えに

  きてくれないか』



 『ぼろ車の後押しなんかイヤだ!』

  思った通り、はねつけられてしまいました。



 『イヤだろうな、ボロ車の後押しなんでイヤだろうな。

  でも、お母さん、足腰がもう痛んで、どうにも車があがらなく

  なってしまった。

  頼むからあのポストのところまで、迎えに来てくれないか』



 いくら頼んでも、

 『ボロ車の後押しなんてイヤだ』

 『イヤだろうな、ボロ車の後押しなんて、イヤだろうな。

  でもな、六時には間違いなしに帰ってくるからな。

  あのポストのところまで迎えに来てくれんかい』


 『じゃあ、六時ちょっきりやで。

  少しでも遅れたらよう待たんで』

 ということで、どうにか承知してくれました。



 あくる日、車を引いてポストのところまで帰って来ると、

 ポストのかげに、恥ずかしそうに、

 しゃがんで待っていてくれました。

 そして、後押ししてくれたんですが、

 車を引きながら、このボロ車に顔をそむけながら、

 どんな思いで後押ししてくれているかと思うと、

 こんな仕事やってきて、

 そして、娘にまでこんなみじめな思いをさせると思うと、 

 たまらん思いでしたが、おかげさまで

 家まで車を引いて登ることができました。



 『あんたのおかげで、今日は久しぶりに

  車を引いて帰りつくことができた。

  明日もすまんけどな、お願いするよ。』



 そんなあくる日も迎えに来てくれていた。

 そんなことが五日ばかり続いたある日、

 ポストの倍のところまで迎えに来てくれていました。

 後押ししながら、


 『お母さんの仕事って、大変なんだな!』


 と叫んでくれました。

 『お母さんだって、この仕事が好きなはずはない。

  でも私のために、この仕事、

  足腰が動かなくなるところまで頑張り続けてくれた。

  私のために。だのに私はお母さんを恨むなんて』

 気付いてくれていたんです。

 そのあたりから、立ち直ってくれました。

 今ではおかげさまで、いい母親になって、

 二人の子どもに恵まれているんですが」



 と聞かしてくれました。



この話に続けて、東井先生は、・・・・・・と本分は続いていきます。

私も涙せずにはいられませんでした。言霊の力ですね。

この著著『心に響く言葉』と合わせて、

東井義雄先生の『10代の君たちへ 自分を育てるのは自分』を是非お読みください。お勧め致します。



* * * 姫路城の歴史(30) 姫路ぶらばらから原文のまま紹介 * * *


姫路円卓会議発行の姫路ぶらぶらから姫路城にまつわる歴史を紹介しています。

30回目は、  姫路城の歴史 中曲輪をぶ~らぶらの

『侍屋敷が並んでいた「中曲輪」』 と 『日本で2番目に広い番地』をお届けします。

『侍屋敷が並んでいた「中曲輪」』

「中之門」から内側は「中曲輪」と呼ばれ、藩士たちの侍屋敷が並んでいました。特に「桜門(大手門)」に向かう大手筋沿いには、家老や年寄といった禄高の高い武士の広大な侍屋敷が置かれ、「中曲輪」に侵入した敵が「桜門(大手門)」へ侵攻することを阻みました。

『日本で2番目に広い番地』

明治時代に入ると、姫路城の「中曲輪」内は、すべて陸軍省の管轄化となり、ここにあった侍屋敷はすべて取り壊され、陸軍の兵舎や倉庫、練兵場へと生まれ変わりました。そして、1886(明治19)、住所が屋敷番から地番に変更される時、この軍用地は「本町」へと編入され、「中曲輪」内は、「本町68番地」となりました。そのため「本町68番地」は、甲子園球場の24倍に相当する約107haもあり、皇居のある東京都千代田区千代田町1番地についで、日本で2番目に広い番地となったのですが、当時は陸軍の施設しかなかったため、別に何の問題もありませんでした。

ところが前後になると、この「本町68番地」内には罹災した人や大陸からの引揚者のための復興住宅が建ち並ぶようになり、一時は数1千人もの人が暮らしていました。そして人々は区域ごとに「白鷺(はくろ)町」や「大手前町」など仮の町名をつけますが、行政上はあくまで「本町68番地」のままだったため、郵便屋さんは名前だけを手掛かりに、数千人もの住人に郵便物を届けなければなりませんでした。



以上、姫路円卓会議発行のガイドブック姫路ぶらぶらの P24  から

姫路城の歴史 中曲輪をぶ~らぶらの 

『侍屋敷が並んでいた「中曲輪」』  

『日本で2番目に広い番地』  を紹介させて頂きました。



大変長くなりましたが、最後までお読み頂きありがとうございます。

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2011年3月14日 (月)

東北巨大地震(平成23年3月11日) & 姫路城の歴史(29)

平成233111446分ごろ、東北地方で非常に強い地震があり、宮城県栗原市で震度7、仙台市や栃木県宇都宮市で震度6強、東京都心でも震度5強など、太平洋岸を中心にとても激しく揺れました。最初の地震の震源は、宮城県沖の深さ24㎞で、地震の規模を示すマグニチュードは、観測史上最大の9.0と推定されています。

また、地震の影響で、太平洋の広い範囲を高さ10メートルを超える大津波が襲い甚大な被害が出ています。

本日のこのブログでは、先程届いた新聞「毎日小学生新聞」がこの度の地震の発生からの状況を分かり易く纏めているので、その記事を抜粋紹介しながら、

この東北宮城沖大地震がどの様なことを引き起こし、現在日本の国民や国土がどの様になっているのか理解し、心に焼き付け、どの様に受け止め生きていけばよいか考えたいと思います。

  

  

以下、小学生新聞より。

  

  

名取市の仙台空港は、海岸から1㎞程内陸にありますが、地震後間もなく、ターミナルビルの1階天井の高さに達する津波が押し寄せ、空港職員や乗客らが3階に避難しました。滑走路も泥流に覆われ、飛行機も車も津波に飲み込まれました。

南相馬市には地震発生から約1時間後に津波が届き、約1800の家が押し流されました。

海岸から約1㎞離れた福島県警相馬署の屋上と3階会議室に約200人が避難し、津波が家を流していくのを息をのんで見つめました。

南相馬市渋佐地区は中心街から34km離れた所にあります。津波が運んできた土砂で町が埋もれてしまい、壊れた家や鉄塔の残骸が散乱しています。

岩手県の海岸は、南北に600kmも伸びる三陸海外の大半を締めます。狭くて水深が深い湾が連なる「リアス式海岸」が多いのが特徴です。

今回の津波では、同県沿岸南端にる陸前高田市のほとんどが、壊滅状態になりました。全長2kmに渡る松林と砂浜が続く景勝地「高田松原」が有名ですが、ほとんどの家が倒壊し、市内が瓦礫(がれき)と化しました。

8000世帯のうちおよそ5000世帯が被害にあったとみられます。残っているのは、市役所やスーパー、ビジネスホテルなどだけといった惨状です。

陸前高田市の北隣になる大船渡市は、同じ様にリアス式海岸を持つ都市で、建物300棟以上が津波で流されたり壊されたりしました。同県宮古市では10か所以上の集落が全壊し、多くの人が流されました。

次に写真の解説文を紹介します。

・火災が続く気仙沼市=12日午前929

・津波に飲み込まれた車や飛行機=11日午後41

・津波で車やがれきが散乱した岩手県釜石市=12日午前7時半

・津波で壊滅的な被害を受けた岩手県陸前高田市=12日午前925分。

・岩手県陸前高田市では市内が水浸しになりました=12日午前925分。

・海岸線一帯の住宅地は水に覆われてしまいました=宮城県山元町11日午後5時半。

・津波は、瞬く間に家を押し流してしまいました=宮城県仙台市12日午前9時半。

・都心では電車がすべて止まり、歩いて家に帰るしかありません=11日午後835分。

・宮城県気仙沼市内はまるで廃墟同然=12日午前821分。

・千葉県市原市では、激しくコンビナートが燃えました=11日午後67分。

11日の大地震発生以来絶え間なく惨事が伝えられてきます。

また、大きな余震が頻発し新たな被害も発生させている模様です。

上記の小学生新聞の記事をまとめる事で、この度の地震による被害は、まだまだ予想もできない状況にあるということがはっきりと分かってということだと思います。

今ここに活きている命、生かされている命を活きる命にしなければならないと強く心に誓う

平成23314日の朝です。

 

* * * 姫路城の歴史(29) 姫路ぶらばらから原文のまま紹介 * * *

 

姫路円卓会議発行の姫路ぶらぶらから姫路城にまつわる歴史を紹介しています。

29回目は、  姫路城の歴史 『 姫路城の門限は? 』をお届けします。

姫路城の城門の中には「埋(うずみ)門」や「鳥居先門(不明門)」のように常に閉ざされている門もありましたが、その他の門は午前6時から午後6時までは通常に開かれており、それ以降も午後10時までは門の「くぐり」のみは開かれていました。しかし、それ以降になると、すべての城門と町中にあるすべての木戸は閉められ、夜勤の者や目付の断りのある御用の者、侍屋敷の主人の断りがある者以外の通行は一切できませんでした。また藩主のみが暮らす「中曲輪」の中に商売の者は入れるものの、他国の者は入れず、侍屋敷への使者や飛脚は、「中之門」「車門」「野里門」「内京口門」の番所で、昼間であっても侍屋敷の主人の手形を持たずに通行することは許されませんでした。

以上、姫路円卓会議発行のガイドブック姫路ぶらぶら P23 から

    『 姫路城の門限は? 』を紹介させて頂きました。

本日も最後までお読み頂きありがとうございます。

 

追伸:

神戸新聞の本日の朝刊見出しは、

『東北大震災 M9.0に修正 世界最大級』

そして、被害者の数が万単位である事を大きく伝えています。

 

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2011年3月 7日 (月)

㈲クロフネカンパニー 総支配人中村典義氏が語った  1時間&姫路城の歴史(28)

 1月28日のこのおたまはん日和の中で、㈲クロフネカンパニー 代表 中村文昭氏の講演会の話を纏め紹介させて頂きました。そして、先日、姫路商工会議所青年部のメンバー7名で、その中村文昭さんの本拠地である伊勢市のレストランに訪問してきました。

 中村文昭さんは、年間300回を超える講演会活動を全国で展開されているので、伊勢市にあるレストランクロフネや、耕せニッポンのプロジェクトなどの実施の指揮を取られているのが、文昭さんのお兄さんで、総支配人の中村典義さんです。

その典義総支配人に、美味しいランチを頂きながら、1時間以上に渡り熱いお話を伺う事が出来ました。

本日は、そのお話を簡単にまとめてご紹介したいと思います。

中村文昭さんは、師匠のもとを離れ地元伊勢に帰り、小さなバーを開業されて瞬く間に成功され、その後、大きな借金をして、披露宴の出来る立派なレストランを開業されます。

そして、クロフネカンパニーのレストランとブライダルがどんどん軌道に乗り、中村さん御兄弟は、多店舗展開を図ります。そして、何かがくるい出し、会社の経営がおかしくなって経営に行き詰まりかけた事があったそうです。

 文昭さんはベンツにのり、典義さんはポルシェに乗っていた。

総支配人の典義さんが、言われた一言が心に残っています。『お客さんの顔が見えなくなったら終わり。』

多店舗展開で拡大をしていくうちに、忙しくなったという言い訳のもと、総支配人としての仕事は、お店の売上を集金に回り、その時にお店の社員さんに文句や何やかやと指示するだけになり、少しずつ、お客様と直接話をする機会が減って行ったそうです。そして、自分でも、何をしてるのか分からなくなってしまっていた、と当時を振り返り言われていました。

お給料を払うお金がなく、寂しいビルに集まって入っているローン会社をまわってお金を借りていた事もあったそうです。多店舗展開はやめて、他の店は締め、利益が上がっていたクロフネの本体の経営だけに戻して、必死に再建にあたられたそうです。

金融機関も利益の上がっている本体の経営を全うに行えば立ち直るという事で、3千万円の融資を受け、高利の借金を返して、本来の何の為に仕事をするのかということに立ち返り復活を遂げられるのです。

レストランや披露宴ビジネスを運営していく上で、とても大切なお酒の仕入れについて、その経営危機の時にある大きな酒屋の社長さんは買掛金が大きくたまっても、催促もせずに見守りながら助けてくれたそうです。

その社長さんは、中村さん達が、銀行からお金を借り入れて、買掛金の支払いに行った時、クロフネが立ち直ると信じて、じっと待ってくれていた事を教えてくれたそうです。

この社長さんの厚情がなければ、クロフネは倒産していたであろうとも、典義さんは言われていました。

クロフネで行う、披露宴はとても人気があります。その理由を伺ってみました。

典義総支配人は、結婚式、披露宴を、新郎新婦と一緒に企画するに当り、絶えず問い続けるのが、誰の為に、何の為に結婚式をあげ、披露宴をして人に集まってもらうのかということだそうです。

その答えを、新郎新婦と一緒になって考え、話し合い、典義さんが導きながら、二人が披露宴を創り上げていくのだそうです。

例えば、引き出物についても、これは何の為にするのかとか、その意味は何なのか。

そして、何をどのようにすれば良いか等を話しながら一つ一つ話し合われるそうです。

そういった過程の中で新郎新婦の二人は、披露宴は何の為にするのか、誰の為に開催するのか?

その日の本当の主役は誰なのか、を問われて悩んだり、何が何だか分からなくなったり、時には喧嘩をしたりして、披露宴の準備を通して二人のきずなを深めて行くのです。

この様な過程をつんで、色々なことを考え話し合い結婚式・披露宴を行うからこそ、新郎新婦たちの二人の心が通じあい、クロフネで結婚式を上げた人達には、離婚する人がとても少ないのだそうです。

また、結婚後も典義総支配人を始め、お店との交流が続いて行くのだそうです。

現在は、伊勢市のクロフネで披露宴を開催するだけでなく、全国からのリクエストにこたえる形で、一般の開場で披露宴を開催される方々へのアドバイザーとしての事業を手掛けられておられます。

今年の秋からは、残念ながら伊勢市のレストランクロフネは、閉店してしまい、そのブライダルのアドバイザーのお仕事に専念されるのだそうです。

今日は、クロフネカンパニーの総支配人中村典義さんのお話を簡単に紹介させて頂きました。

ホームページに色々な活動が紹介されています。どうぞ次のサイトをクリックしてみてください。

http://www.kurofunet.com/




*
 * * 姫路城の歴史(28) 姫路ぶらばらから原文のまま紹介 * * *

姫路円卓会議発行の姫路ぶらぶらから姫路城にまつわる歴史を紹介しています。



28回目は、  姫路城の歴史 『 お城の基礎知識「究極の虎口」』をお届けします。



虎口の前にある石垣や土塁で囲まれた小さな広場を「枡形(ますがた)」と呼び、こうした「枡形」の誕生は桃山時代だと言われています。関ヶ原の戦い以降、この「枡形」は徐々に大きさを増し、その外側に高麗門、その内側に櫓門を建て、内外二重の門で「虎口」を守る「枡形門」が登場します。

残念ながら姫路城には「枡形門」は現存していませんが、中之門の少し西にある鵰門跡では、その遺構が良好に残されています。この「枡形門」では、外門を突破した敵が「枡形」に侵入しても、「内門」が行く手を阻み、逃げ場を失った敵は、自由の利かない「枡形」内で、その周囲にある城壁にある土塀や櫓門からの横矢を受け、殲滅(せんめつ)させることとなります。つまり「枡形門」こそ敵を殺戮する為に造られた「究極の虎口」といえます。

以上、姫路円卓会議発行のガイドブック姫路ぶらぶら P23  から

     『 お城の基礎知識「究極の虎口」』 を紹介させて頂きました。

最後までお読み頂きありがとうございます。




追伸:

昨日3月6日に大阪長居公園で開催された 第33回大阪フルマラソン大会に参加し42.195kmを走ってきました。この大会は長居公園のランニングコース2,813km15周するもので、参加する前は退屈するのではないかと思っていましたが、早咲きの桜があちらこちらで見られたり、運動公園で野球や色々なスポーツが開催されていたり、市民の憩いの場として沢山の方々が集まられていた事で、厭きることもなく楽しく、そして、安心して走れる大会でした。

タイムも3時間34分と自己ベスト更新出来ました。

  

  

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