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2011年6月 6日 (月)

天風会一日行修会 & 姫路城の歴史(41)

『天風会一日行修会 & 姫路城の歴史(41)

 この度、明石の中崎公会堂で開催された 天風会神戸賛助会主催の 一日行修会に参加して来ました。約50名の参加者があり、参加されていた殆どの方が永年に渡り天風先生の哲人の教えである心身統一法を実践しておられる方達です。また、今回初めて参加された方も数名おられました。

私は、一日行修会は、東京で一回、そして、昨年11月に明石で参加し今回で3回目になります。

 今回の一日行修会は、朝930分に、元気なしかも厳かな朝礼からスタートし、心身統一法の坐法・養動法・安定打坐法の実践を行いました。また、天風式の体操も丁寧に教えて頂きました。

この天風式の体操は、日頃使わない筋肉(裏筋肉)に刺激を与えたり、内臓にも良い刺激を与え、血液の循環を促進して体の内部から活性化を促すものだそうです。

体操をしながらの呼吸も大切で、御指導頂いた 國分先生 の教えで天風式の体操の意味を色々と知り、早くマスターして日々の生活に取り入れたいと思っております。

 また、講義も行われました。南方先生からは「我とは何ぞや」と題して講義が行われれました。

また、森本先生からは、心身統一法にとっていかに安定打坐が大事であるかという事と、安定打坐の日々の実践について具体的に解り易くお話を頂きました。

 また、心身統一法の実践と経験談について天風会員のお二人からお話がありました。

その内のお一人は、入会が昭和32年で、心身統一法の実践歴が53年となり、現在八十数歳となられておられますが、肌は艶々で、心身共に健康そのもの、まさに明るく、朗らかに、活き活きと天風教義を日々実践して活きることの意義と素晴らしさが良くわかります。

 

 天風会神戸賛助会では、7月にメインイベントとも言われる 夏期修練会(4日間)が開催されます。この度の一日行修会は、その修練会に向けて心身統一道の基本を再確認する予備修練会的な意味もあり、参加されているベテラン会員皆様は、より一層元気に熱心に取り組んでおられる様に感じました。お陰様で、私も大いに元気を頂き、よく勉強させて頂きました。

 天風哲学は、書物を読んで考えるだけのものではなく、毎日の実践哲学であります。

朝目覚めの時から、就寝し、睡眠に入るまで、天風哲人の言葉をそのままお借りすると、信念で寝て、信念で起き、信念で一日中を活き、心を積極化させるものです。

その具体的な方法として、「観念要素の更改法」、「積極観念の養成法」、「神経反射の調整法」、そして、「安定打坐」などがあります。これから私は、本を読んで学ぶだけでなく、天風会の勉強会にも積極的に参加して、先達の皆様に導かれ、一緒になって学び、心身統一の各種方法の全部を早く理解し、実践し、また、世に広めて行けるような人間に成りたいと思っています。

 7月15日から4日間行われる 天風会神戸賛助会 夏期修練会については、次のサイトをご覧ください。 

 http://tempukai-kobe.jp/lecture.html

 森本先生から教えて頂いた 中国の明の崔後渠という人の、『六然訓』 を紹介させて頂き、この文章を締め括りたいと思います。

この六然訓は、大正十年の夏に、天風哲人が東洋のネルソンと言われている東郷元帥から紹介されたもので、それ以来、天風哲人もこの六然訓を愛し、天風教義のお話をされる時に何度も引用されていたそうです。正にこの六然訓の様な生き方をしたいものです。

自処超然(じしょちょうぜん)
処人藹然(しょじんあいぜん)
有事斬然(ゆうじざんぜん)
無事澄然(ぶじちょうぜん)
得意澹然(とくいたんぜん)
失意泰然(しついたいぜん)

解説についは、検索して見つけてたサイトから引用させて頂きます。

http://clife.info/sda-osaka/05/050502.html

自ら処すること超然(ちょうぜん)
人に処すること藹然(あいぜん)
有事のときには斬然(ざんぜん)
無事のときには澄然(ちょうぜん)
得意のときには澹然(たんぜん)
失意のときには泰然(たいぜん)

それぞれの意味は、

事に臨んで、自分に関する問題には一切とらわれない
人に接するときには春風に霞がかかっているようなのんびりとした雰囲気でいること
何か問題があるときには、きびきびと取り組む
何も問題がないときには、水のように澄み切っている
得意のときには、あっさりしている
失意のときには、ゆったりと構えている
                     ということです。


*
 * * 姫路城の歴史(41) 姫路ぶらばらから原文のまま紹介 * * *

姫路円卓会議発行の姫路ぶらぶらから姫路城にまつわる歴史を紹介しています。

41回目は、  姫路城の歴史 『 江戸時代の大手口 』をお届けします。

江戸時代の姫路城の大手門の姿は、現在の姿とは全く異なるもので、今は何も築かれていない「内濠」の石段の上には、「桜門橋」の北にあった三層の「太鼓櫓」を始め、角々に「櫓」が上げられ、「櫓」と「櫓」の間には「西の丸」のような土塀が築かれていました。

また城の大手口は、「桜門」、「桐二の門」、「桐一の門」と呼ばれる3つの門で守られ、3門の間に2つの「枡形」を設けた究極の「枡形門」となっていました。特に一番内側に置かれた「桐の一門」は幅23.4mもある巨大な高麗門で、この門こそが内曲輪における真の表玄関となり、その左右両柱の冠木(かぶき)の飾りとして金色の桐紋が打ち付けてあった事から、この名がつけられたといいます。

また、この大手口の三つの門は、千姫が幼い頃を過ごした京都の伏見城にあったもので、1618(元和4)21代城主・本多忠政が譲り受け、ここに移築したものだと伝えられています。

この場所からは羽柴秀吉の時代の瓦などが出土していることから、その頃すでに城門があったと考えられていますが、本多忠政が城門を移築する前に、この門がどのような姿だったのかは未だにわかっていません。

以上、姫路円卓会議発行のガイドブック姫路ぶらぶら P30 から

      『 江戸時代の大手口』を紹介させて頂きました。


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